仕事帰りに、中年の男性二人と、同じ電車に乗り合わせた。
駅で何かがあったのだろう。
低い声で何か言い争いをしながら、
互いに腕と胸元を掴みながら開いたドアから入ってきた。
樹脂製サンダルをはいた男性と、茶色いベルトのジーンズの男性。
臙脂(えんじ)色の長椅子の通勤電車には、肩が触れあうほどの人が乗っていた。
私の隣の女性は、つり革を片手に小説を読んでいる。
裏表紙の青いラベルには、見覚えのある図書館の名前が書いてある。
茶色いベルトの男性は、サンダルの男性の腕をつかんでいた。
その時、サンダルの男は、相手のベルトを掴んで持ち上げ、足をかけた。
茶色いベルトの男は、なんとか持ちこたえた。そして、
「さっきから何やってるんですか、いい加減やめてくださいよ」と突然声を張り上げた。そして周りを見回した。
小説を読んでいた女性は、ただならぬ雰囲気に気づくと、
「えっ、えっ・・・もういやだぁ。。。なんでなの?」と独りごとのように呟き、
「もぅ・・」と言いながら、一歩だけ隣へよけた。
そして、周りの乗客の顔をチラチラと窺っていた。顔を上げる人はいなかった。
女性は、カバンからイヤホンを取り出して、おもむろに両耳に付け、
再び、読んでいた本に目を落とした。
他の乗客たちも、少し離れて、無関心を装っていた。
声をかける人は、誰一人いなかった。
何か行動を起こそうとする人は、誰もいなかった。
二人の周りには、「見えない壁」が作り上げられたように感じた。
見えない壁の向こうで、まだ二人は争っている。
そして、車内には落ち着きが戻ってきた。
「見えない壁」を作り上げたのは、「無関心な傍観者」である周囲の乗客達だ。。。
気付いているにもかかわらず、
手の届く、目前で起こっているにも関わらず、
「不都合な現実」から目を背けたい人たちが、ここにもたくさんいた。。。。
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目の前で繰り広げられる光景に、
私は、過去に経験した「何か」と重なるものを感じました。
『強く意識しない限り、人は「無関心な傍観者」になることを望むことになる・・・』
それは、高校生の私が感じた
「世の中に対する やるせない気持ち」と重なるものでした。。
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高校生の時、調書を取られたことがあります。。
気弱な私が何かやらかした、というわけではありません。
帰り道でカツアゲにあい、財布を取られて、殴られた。。
ただ、それだけ。。どこにでもある、良くある話です。
学校の勧めで、私は交番に行きました。
警察官と向かい合って座り、状況を話しました。
学校の最寄駅からは、自転車で通学していること。自転車は駅前の駐輪場に置いていること。
駐輪場の入口で、ボンタンをはいた5人組に、乗っていた自転車ごと押し倒されたこと。
- 5人組は転んだ私を取り囲み、手を足で踏みにじりながら「大丈夫か?金持っとる?」と聞いてきたこと。
- 「ない」と答えると、「喉になんかついとるよ」と言いながら、喉仏を掴んできたこと。
- そして「調子乗んなよ、喉仏潰したろか」「もう声出んようになるで」と言われて、カバンやポケットを探られたこと。
- 手足を押さえつけられ、首を掴まれ、わき腹を殴られ、動くこともできなかったこと。
- 財布を見つけた後で、「誰かに言ったらどうなるか知っとるか?」と言われ、また殴られ、蹴られたこと。そして、身に危険を感じたこと。
- 目の前を何人も通ったけれど、誰一人助けてくれなかったこと。
- 自転車の止め方をいつも注意してくる、口うるさいおばさんも、一度振り向いたけれど、向こうに行ってしまったこと。
話しながら、縦書きの用紙に、手書きで文字が埋められていきました。
「ひとまず書いてみるね。違うところがあれば後で言ってもらえばよいから。。」
警察官の言葉を信じ、
書かれている内容に違和感を感じながらも、
恣意的に言葉の切り貼りをする人だなと思いながら、
出来上がっていく調書を冷ややかに見ていました。
手書きの調書の中には、このようなことが書かれていました。
「僕は怖かったので、何も言わずに高校生に財布を渡しました。」
「ものかげに連れていかれたので、周りの人には気付いてもらえないと思い、助けは求めませんでした。」
「早く終わってほしかったので、怒らせないように、周りの人に助けを求めるのは、やめることにしました。」
「似た言葉」は使ったかもしれないけれど、まるで意味が違う。
なぜ、この警察官は、
話した内容とは異なる原因と結果を、平気で繋げようとするのか。。。
最後に、署名と拇印を求められたとき、気になる点について聞いてみました。
交番の警察官は、イヤな顔をしながらいいました。
- 「じゃあ、少しも怖くなかったんだ。」
- 「だとしたら、さっきの話、嘘ついてたの?」
- 「そうやって嘘をつくことも罪になるよ。知ってる?」
- 「そういうことなら、これから警察署に来てもらってから、もう一度話を聞いてもいいよ。」
- 「帰るの遅くなるだろうから、ご両親にも来てもらわなきゃいけなくなると思うけどね。」
- 「今回のカツアゲのこと、心配するから親には言いたくないって言ってなかったっけ?」
結局こういうことになるんだ、、と、もう何も言う気になりませんでした。
あきらめて、言う通りに署名をしました。なぜか、印鑑はだめだと言われました。
最後に、警察官は続けました。
「駅前には、いつもタクシーが止まっているし、人も通るし、普通はカツアゲにあっていたら誰かが気付いて、助けてくれると思うけどね。変だね。」
「でも、怖くて助けを求められないんじゃ、どうしようもないね。周りの人は友達だと思ったんだろうね。」
高校生だった当時の私は、
カツアゲをしてきた5人組よりも、
調書を書いた警察官、カツアゲに会っていても助けようとしない人たち に対して、
とても「やるせない気持ち」を抱いたことを覚えています。
- 警察官は、物事を矮小化するような調書ですら、平気で書くこと。
そして、場合によっては、その逆も当然起こりうるだろうこと(公権力の危険性)。
- 相手が弱いと思えば、強く出る人(攻撃してでも言いくるめようとする大人たち)は、世の中に出てからも、たくさんいるだろうこと。
- 強者と弱者は、当事者間で相対的関係性により決められること(下っ端同士でも強者・弱者の関係は生まれる。相手に強者と意識させれば、相手は強者の役割を果たすことになる)。
相手より優位に立つための小手先のテクニック(論点ずらし、相手への威圧・攻撃、揚げ足をとること等)を、弱者にも平気で使うことへの不快感。
- 本当に助けてほしい時に、人は都合良く助けてくれないこと。見て見ぬふりをすることもあること。
- 自分に起こったことは、自分で何とかするしかないこと。助けを求めても、自分にとって良い結果を与えてくれるわけではないこと(世の中には色々な人がいる、利害もある)。
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そして、
乗り合わせた電車内での、二人の男性の喧嘩。
私には、二人のうちのどちらが悪いのかなんてわかりません。
ただ、この喧嘩はこのままエスカレートしてほしくないと感じました。
そして、パっとしない男性同士の喧嘩には、
誰も助けになんて入らない/入ろうとも思わないこと(※)を、知っていました。
あの、小学生のいじめの時も、傍観者だらけでした。
(※)きっと、これが中年男性と、若い女性の喧嘩であれば、誰かが手を差し伸べるのでしょう。感覚的にはわかるものの、この背景に何があるのか、私にはまだ説明できません。
・・・上の状況に対する思いつきの仮説です⇒ 〔仮説①〕若い女性は社会的な保護対象と考えられるため、人は助けたくなる(男性の本能?下心?マスコミでも報道されやすい傾向あり。根底には女性に対する旧来の考え方が残っている?)、〔仮説②〕目の前の「イヤな思いをしている女性」に気付いた場合、気付いた女性が気持ちに共鳴(共感)し、同性(より共感できた相手)に対して手を差し伸べたくなる(共感できた相手を守りたくなる)、〔仮説③〕フェミニズム的な考え方(ここは割愛)。
更に、この二人の様子に、少し嫌なものを感じました。
- 二人の男性間の対照性:(『汚れた樹脂製サンダルをはいた、爪の汚い男性』と『茶色いベルトのジーンズの男性(相対的に普通に見える男性)』)
- 周囲の目を気にしたような発言:ジーンズの男性が「さっきから何やってるんですか、いい加減やめてくださいよ」と突然声を張り上げたこと。そして周りを見回したこと。困っているような言動を続けたこと。
私には、どちらが悪いのかなんてわからない、
ただ、何かが起こったら、サンダルの男性が困るのような気がする。。
そして、肉体的接触だけは、気を付けなければいけない。。と。
・・・「根拠のない直感」が働きました。
私は、悩むことはやめて(思い立ったら即行動;独身時代の習慣)、
乗降の人の流れに任せて、彼らの間に割り込み、
ジーンズの男性を電車の奥に押し込みました。
私のほかにも、他の乗客がなだれ込んできました。
しばらく二人は腕をつかみ合い、なにか声を上げていたものの、
電車が動き出すと手元の電話を見始めました。
よかったよかった。事件にはならなさそうだ。。
そして、私が何をしたか、彼らには気付かれていない。これもよかった。
今回の「根拠のない直感」が正しかったのかどうかは、全くわかりません。
ただ、
- 明らかに悪いことにはならなかった。
- 自分の正直な気持ちに、制限をかけなかった。
この2点については、「悪くはなかった」のだと思います。
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結婚後の自分は、
私自身や家族が作り上げた「〇〇としての責務」につぶされそうになりながらも、
「危ないかもしれないもの」には関わらないように気を付けていました。そして、関わることも許されませんでした。
今回、妻が子供を連れて、突然家を出て行ったことがきっかけとなり、
これまで色々なことを考えてきました。
「家庭内を、様々な規則で縛り上げない」
「自分自身の気持ちを、正直に見つめることができること」
・・・等々
そして、今回のことに関して、
何よりも気を付けておかなければならないこと。。
- 成功体験は「自分は、周りのことをコントロールできる」と勘違いすることにつながりかねない。
この点については、誤解しないように強く意識しておきたいと思っています。
そして、
<自分を変えるための8つのステップ>の中では、
【第3段階】「現在の自分の考えに至った背景を知ること」を挙げました。
最近は、仕事をしていても、昔の光景があふれるように込み上げてきます。
小・中・高校、大学の私は、いつも何かに悩んでいました。
そして、悩みを解消するために、
周りを観察し、本を読んで、人と話して、また悩む。いつもそんな繰り返しでした。
大した悩みでもなかったように感じますが、当時はまじめに悩んでいました。
現在の状況も、、
- 自分の中だけでは完結しない「家族」(考え方の異なる他人と共同体を作る、次の世代を作りあげる)という問題が含まれているから難しいのか、
- それとも、そこまで肩ひじ張らなくてもいいのに、自分の考え方の中で、がんばりすぎて空回りしているだけなのか(実は別のところに簡単な道がある)
まだよくわかりません。
ただ、これまでの自分の経験(数十年だけですが)からは、
- 第一印象で「気分が悪い/腹立たしい」と感じたものが、実は正しかったことがある。(痛いところを突いてくる考え方から、目を逸らしたかっただけ)
- 考えた末、一旦「間違っている」と判断したものであっても、見方を変えてみると、やっぱり正しいと実感できることもある(思考のゴミ箱漁りも有効。時間がたてば見方も変わる)。
- 過去に悩んだことをもう一度悩みなおしてみると、新しい結論が生まれることがある(考え方のアップデート。これは最近実感し直しました。)
ことは、何度もあります。
そして、家族問題については、1点目の中に答えがあるような気はしています。
何となく気づいているものの、自分が極端にふれてしまわないか心配です。
そして、今までと違う世界に入り込む怖さも感じています。
そもそも、「新しい世界に入り込まなければならないのか?」という疑問もないわけではありません。
ただ、新しい世界に入って、ダメだったら修正して、
それでもダメだったら、戻ってこればいいだけなので、
大して躊躇する理由にはならないのかもしれませんね。。
やってダメでも「何とかなるさ」という楽観的な気持ちと、
Festina Lente の精神で、着実に歩いてこうと思います。
☆家族から全く連絡がないのは、ちょっと気になります。
☆「一人の大人が決めたことなのだから、家族であろうとあんたは関係ない」と言ってしまえば、それまでなのですけどね(この考えで行くのなら、早く民法を改正すればいいのに、とも思ってしまいます。。)
青臭いといわれても、ブルーハーツは元気の素です。
「TRAIN-TRAIN」聴いていると、今でも涙が出そうになります。。。昔から自分は強くなかった。。
今日もありがとうございました。
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