Yasukun-papa は「おひとりさま」

やすくんパパ の思いをつづる、Liveなブログ。。

『人を信じる』 ということ ~何があれば、相手を信じることができるのか

 

最近どういうわけか、上司か優しいのです。

といっても、「毎度の小言」を言われることが少なくなった、というだけです。

 

上司からは、妻の出産前後に急な休みを何度も取ることになった私に対して、

個人的にも、全体のミーティングでも、「小言」を繰り返し言われ続けていました。

  • 「やむを得ないことはわかっているけど、仕事くらいは、ちゃんとやってほしい。」
  • 「一体いつになったら、子供や家族のために休むことが無くなるのか教えて。」
  • 「そんなあなたには、危なっかしくって仕事はあげられないし、ウチの部署にあなたにあげられるような仕事があると思う?」
  • 「あなたは要注意人物だから」「目をつけられているんだからね」「気を付けたほうがいいよ」

1年近くが経ち、彼女から「小言」を言われることは、少なくなりました。

私も、少々のことなら上手く切り返せるようになってきたんですけどね。。

 

 

そして、今までのように仕事が振られ、あとは放置される日常に戻りつつあります。

 

仕事が振られ、あとは放置。。。

これは、プライベートと仕事のバランスを変えようとしている私にとって、大変有難いことです。

  • 「定時帰宅宣言」をしても「いいことだね」と言われ、
  • 自由に有給休暇をとっても「取れるときに取ればいい」と言われ、
  • 突然休んでも、仕事に支障がなければ、周りからは何も言われない。

 一方で、

  • 何かが起これば、自分が解決せざるを得ないし、
  • 解決に手間取れば、仕事は終わらないし、当然家にも帰れないし、
  • 自分の仕事を助けてくれる同僚も、そもそもいない(担当制なのです)。

という苦しさもありますが、

自分で上手く立ち回ることさえできれば良い話だと思っています。

 

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そういえば少し前の打ち合わせで、上司が何やら言っていました。

  • 「こっちだって誰に仕事を振るか考えるの、結構大変なんだから。」
  • 「でも信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」
  • 「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」
  • 「一度任せたらいちいち状況を確認するつもりはないし、やってくれてるのならそれでいいから。」
  • 何かあれば、早めに教えてくれたらそれでいいよ。」

  

意外と良いことも言うと思いつつ、

「人を信じること」とは何なのか、少し考えさせられました。

  • 一体何があれば、人は相手を信じることができるのか。そして、信じることができなくなるのか。
  • 信じるためには、「なにか」が存在していることが必要なのか。
  • 「なにか」があれば、信じることができるのか。その「なにか」とは何か
  • 「なにか」は、相手から与えられるものなのか、自分の中にあるものなのか。
  • それとも、第三者から与えられる「保障」「裏付け」のようなものなのか。
  • 「直観」で信じるのか、「納得」できれば信じるのか。
  • 信じたいという「想い」があるから、信じようとするのか。「想い」の中には、もう一つの「別の気持ち」が隠されているのではないか。
  • 信じるためには「時間」が必要なのか。それは何のための「時間」なのか。「時間」をかければ信じられるのか。
  • 人を信じられないのは、相手に「問題」があるからなのか、自分の中にある「問題」も原因なのか。そして、相手の「問題」が解決されれば、信じられるようになるのか。
  • 「問題」が解決されたことを、どのような方法で認知できるのか。
  • 目に見えないものを「解決した(された)」と感じるためには、結局「信じる」ことが必要となるのではないか。
  • 問題が「解決した(された)」という状況は、存在し得るのか。相対的な意味合いで捉えればよいのか。
  • やっぱり、人を信じるために必要な「なにか」なんて、何もないんじゃないか。。
  • だとすれば、もし「相手を信じられない」のであれば、「信じたくないと感じている」だけなのかもしれない。
  • ただ、この結論に至るまでの考え方を、自分の中で、言葉にできるほど纏められているわけもはない。。。

  

「人を信じること」とは何か。。

こんなことを口に出すこのは青臭い、、と思いながら躊躇していましたが、

考え始めると、モヤモヤとした気持ちが止まらなくなります。

 

目の前のことに追われ無難に物事を処理することを優先してきた日々の生活の中で、

このようなことを考える機会が廻ってくるとは思いませんでした。学生時代以来の新鮮さを感じます。

きっと、誰かが素敵な答えを持っていそうだけれど、もう少し悩んでから助けてもらおうと思います。

 

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「人を信じること」とは何か、と考え始めると悩ましくなりますが、

「日頃の生活で、あなたはどのような時に人を信じていますか?」

という質問に対する私の答えは、簡単です。

 

『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じています。』

  •  信じた結果、ひどい仕打ちを受けても、それはそれでしょうがないと思っています。(信じたことに対する見返りを、相手に期待するつもりはありません。頼んだことはやってもらいたいと思っているけれど「信じている」かどうかは関係ありません。)
  • もちろん、相手と距離を置きたいと感じ、避けることはあります。(私の中で「信じること」と「受け入れること」は違うのだと思います)
  • その相手と会ったときに、警戒しながら接するかもしれないけれど、「相手を信じる」という気持ちに変わりはありません。(先入観を持たず「受け入れられる何かが見つけられれば良いな」と思いながら接します。)
  • 「私に対して、嫌なことはしないでほしい」という気持ちと、「相手を信じること」は、全く別物だと考えています。(「あなたの言っていることは信じられない!」と思うことはありますが、相手のことは変わらず信じています。)

 

これは、「人を信じる」ということを意識し始めた小・中学生の頃から、変わらないように思います。

  

そういえば(余談ですが)、

学生時代に、刑法理論で対立する「古典学派」「近代学派」の考え方に触れたとき、「古典学派」の中に一貫する「人の主体性を信じる」という考え方に対して、とても印象深いものを感じたことを思い出しました自己学習なので見当違いかもしれません・・・)(※)

 

備忘までに、「古典学派」「近代学派」の考え方を簡単にまとめておきます。

(この分野は、全くの素人なので十分気を付けてください。私の思い込みや誤解も含まれていると思います。)

古典学派の考え方(前期:18世紀~、後期:19世紀後半~)

〔カント、フォイエルバッハヘーゲルベーリング

・人は本来、自分の意思により自己の行動を制御することができる

・道義に反する行為を選択したことに対して刑罰が科される

  1. 人は自分の意思で犯罪をするかしないかを決められる(意思自由論)
  2. 犯罪は、犯人自らの自由意志により選択した結果であり、必然的なものではない。
  3. 実在した行為とその結果に対して(実在説)、道義的非難として刑罰(応報刑)が与えられる(道義責任論)。【応報刑主義】

 

近代学派の考え方(19世紀後半~)〔ロンブローゾ、フェリー、リスト〕

・人は素質や環境により犯罪を犯すかどうかが決定されている

・行為者の反社会的性格、社会的危険性に対して刑罰が科せられる

  1. 人の行動は、遺伝的素質と社会的環境によって支配されている(決定論)
  2. 犯罪は必然的に起こったものであり、犯人の社会的危険性が露呈したにすぎない(生来性犯罪人説)
  3. 犯罪を犯したことで、犯人が「内面の危険性」を持っていることが明白になったことから(徴表説)、「犯人という社会的に危険な存在」から社会を防衛するために(目的刑)、犯人を社会から隔離し(社会防衛論)、犯人を懲らしめ、再教育を施す必要がある(行為者処罰、保安処分)。【特別予防主義】

**今日の通説的な見解は、古典学派の「応報刑主義」を基本として、応報刑の範囲内で一定の目的刑を加味した「相対的応報刑論」の立場をとっています。**

 (※)医療・福祉的な観点から考えると、教育刑”を提唱する「近代学派」の考え方も悪くないと感じたものの、国家による強制的な刑罰の一環として、保安処分(治療・再教育等)が含まれ、権力による人間性の否定(行為者責任)が正当化されてしまう考え方に恐ろしさを抱きました。厳格であるべき刑法の中に、曖昧性を含む「近代学派」の考え方を取り込むことに違和感を感じたのかもしれません。「古典学派」は犯罪者に対しても自由意志を認めています(行為責任のみ。刑罰としての教育は存在しない)。消極的ではあるけれど、自由意志の中にある「本人を信じる気持ち」は有難いものだと感じました。(息苦しい世の中で、自由意志を持っている人がどれほどいるのか心配になりますが。。)

 

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「信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」

「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」

 

あの上司が、何を以て「信じること」にしたのかはよく分かりませんが、

彼女の有難い言葉を励みに、「ぼちぼちと」仕事に励んでいこうと思います。

もちろん、「定時帰宅宣言」は続けながら。。。

  

そして、、

『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じる。』

相手を信じるために「なにか」なんて必要ない。信じることに見返りは求めない。

昔からずっと自分の心に留めていたはずなのに、心の余裕がなくなると、他のことの陰に隠れてしまうこの気持ち。

早速、神棚の下にでも貼っておこうと思います。

 

今日もありがとうございました。

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