前回までは、
- 社会人3年目の時に「自分の寂しさを人に満たしてもらうことを依存的に求める女性」に対し、大きな心の闇を感じたこと。
- 自分は、「相手から依存的に求められると「心の中の攻撃性」が出てくるのではないか」と、いつも恐れを抱いていること。
- 「心の中の攻撃性」は、私の小学生時代の経験(※)と関係しているように感じていること。
(※)「クラス内で親の仕事を笑われたこと」「守ってくれる母親の強さ」
「偉い人にはヘラヘラする音楽教師」「クラス内の人間関係が見えてきたこと」
について、お話ししました。
今回は「小学生時代の経験」の最終的な結末、
どのような「闇の性格」が現れてきたのか、について正直に綴っていこうと思います。
<その前に>
※ 人が身体的に傷つくような結末はありませんが、心理的にはきついです。できるだけ丸い表現としました。
※ 人に対して陰でひどいことをしたことに罪悪感を感じつつも、自分の中に弱者に対する攻撃的な感情があるように感じたことから、特に「依存的に求めてくる人」との距離は置くようにしている。。というオチです。
※ 気分のいい話ではありません(私なら読みたくない)。十分にご注意ください。
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2. 子供の仮面をかぶった悪魔
あの一件が起きた以降も、
いつも遊んでいたA君とB君は、特に何事もなかったように私に話しかけてくれます。
ただ、どういうわけか「帰りの会」の「今日の悪いことの発表」では、
決まって忘れたころに、いつもの集中砲火を浴び続けていました。
みんな飽きもせず、長いこと続くものだ、と感じていました。
そんな時間が、数か月続きました。
友人達と積極的にかかわることがイヤになっていた私は、
空き時間のほとんどを、本を読んで過ごしていました。
そうしていると、みんなの話が、自然と耳に入ってきます。
- 昨日観たテレビのこと、どんなところが面白かったか。
- お母さんに注意されたことや、言い合いの話。お父さんのとの会話。
- 大切にしている宝物やペットの話。
- 休日にレストランに連れて行ってもらった話。それを聞いている周囲の反応。
- 人によって態度を使い分けているのはだれか。いい子ぶっているのはだれか。
- 今日はNさんが○○を秘密で学校に持ってきて、明日はだれが何を持ってくるか。
- そして、クラスメイトに対する陰口。陰で誰がどんなことをしているか。最近誰と誰の雰囲気が良くなさそうか、等々、、
今まで、気にすることはほとんどありませんでしたが、
静かに座っていると、好みや性格、家庭の様子、人間関係など、
クラス内の状況がいろいろとわかるようになってきました。
そして、
Hちゃんは、いつも先生に告げ口をしていることもわかってきました。
さらに、
告げ口を受けた音楽教師(担任)は、
その内容の真偽すら確認せずに、簡単に決めつけること、
そして、誤りに気付いても、絶対に折れないことも知りました。
また、その頃に音楽教師と主任の先生との力関係を目の当たりにしたこともあり、
「音楽教師は必ずしも強いわけではない、自分にも何かできるかも・・」
という気持ちを持ち始めたように思います。
(校長や教頭以外の先生の間にも上下関係がある、、という事実を、実感と共に意識しました。)
「悪い自分」が少しずつ動き出しました。
空き時間に、本を読むことをやめました。
A君やB君と、再び遊ぶことにしました。
音楽教師には、色々な相談をしに行きました。
そして、周囲の様子に耳を傾け、
音楽教師を困らせることができるような出来事が起こらないか、
注意するようになりました。
つまり、「復讐心に燃えた小学生の私」は、
「自分は陰に隠れて、クラス内で問題を引き起こし、音楽教師を困らせること」を考えていたのです。
具体的には、次のようなことを企んでいました。
すべて教師に対する当てつけのための行動です。
- クラス内で問題の種を作ること(友人同士の言い合いを仕向ける)
- 教師が見ないふりをすることができない程度に、問題を大きくすること(喧嘩に加担して問題をエスカレートさせる)
- クラス内で音楽教師に対する不信感を煽ること(最初は、音楽教師にこっそり「うその告げ口」をして、違うこと知っているみんなで陰口をたたくようなことを考えていたと思います)
- クラス内に問題があることを、親にも気付いてもらうこと(帰宅前の「帰りの会」を長引かせて、帰宅時間を遅くする)
- 音楽教師は「悪い先生」だということを、他の先生や親に知ってもらうこと(同じことを何度も繰り返し、「悪い先生」だと知ってもらう)
まずは、悩みや秘密を話すフリをして
正義感の強い女の子を利用して、人の陰口を広めました。
タイミングの歯車が合うと、陰口はあっという間に広まりました。
特に、関係の悪くなりそうな一方に対して、
相手側からの悪口や、相手側の人間性を否定するような情報が伝えられた際には、
誰もが疑うことなく、事実として受け入れました。
さらに、帰宅前の「帰りの会」の「今日の悪いことの発表」の場で、
自分がされた時と同じように、人の「悪いところ」を皆で指摘しました。
「悪いところは本人に教えてあげたほうが良い」という理由があれば、悪いことを指摘することに、そしれほど躊躇しなくなるようでした(「悪いこと発表」には、告げ口のHちゃんが全面的に絡んでいました)。
私は気持ち悪いことに、
「悪いところ」を皆で指摘する際に、
「○○だけが悪いわけではない」と善人ぶった発言をし、
音楽教師からいい子であると認めてもらおうとしました。
何も考えない音楽教師は褒めました。。思い通りでした。。
クラス内の雰囲気が次第に悪くなったように感じました。
教室内の歯車が一度狂い始めると、お互いの不信感が募り、
ほんの小さなことですら、相手を疑ったり、すぐに犯人捜しが始まるようになります。
思った以上の雰囲気の悪化に、私は焦りを感じましたが、
一度動き出したこの流れは、私にはもう止めることはできなくなっていました。
そして、私の手を離れて、同じようなことが何度も繰り返されました。
持ち物がなくなった時には(持ち主が落としただけであっても)、
音楽教師までが加担して、
「取った人は正直に言いなさい」
「一人ずつ立って、やったかやっていないか正直に言いなさい」
「みんなやっていないのなら、なくなるわけないじゃないか!」
「誰かこの中にウソツキがいるはずだ!」
という、悪循環を加速させる犯人捜しまで行われるようになりました。
暗くなるまで「帰りの会」が続く日々は、本当に異常でした。
そして、クラスのみんなは、音楽教師の不満を言い始めました。
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今考えると、
親のことを少し笑われた程度で、ここまでやるのは異常としか言いようがありません。
笑われても「だからどうしたの??」と言える余裕があってもよかったと思います。
ただ、当時を思い出すと、
「たとえ何があっても、親が子供のことを守るのは当然だ」と言っていた強い両親のことを、みんなの前で、それも「汚くて危ない仕事の人」という言葉で笑いものにした音楽教師のことがどうしても許せなかったのだと思います。
これは、自分の中に「ウチとヨソは違う。。」という潜在的な負い目があったことも、反発の閾値を下げていたように感じます。
ただ、実際に、ここまで思い通りに、周りが動いてしまったことには、
小学生の私としても本当に驚きでした。
止めようと思っても、すでに制御できなくなっていました。。。
小学生の私にとって、この悪いたくらみは「絶対にやってはいけない恐怖の出来事」として刻まれることとなりました。
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ところで、そもそもの話。
「相手から依存的に求められると、心の中の攻撃性が出そうになる」ことと、
今回の「企みの話」とは、一体どのように繋がるのか。。。。
今回の企みで、
私は聞き耳を立てながら、クラスの雰囲気を感じとり、
攻撃しやすそうな人を選んで、陰口や「今日の悪いこと発表」の対象としました。
音楽教師を攻撃するための手段として利用したのです。
対象とされた彼は悲しんでいました。そして泣いていました。
そのような彼のもとに、私は慰めに行きました。他には誰もいませんでした。
そして、彼の泣いている目をみました。
こんな私に対して、疑うことなく、彼は「ありがとう」と言いました。
その時に、
「もう一度やってみたら・・」ということが一瞬でもよぎったのかもしれません。
自分が彼より優位に立っていることに、満足を覚えそうになったのかもしれません。
ただ、 私は彼に対して、二度と悪さを企むようなことはしませんでした。
というより、あまりにも恐ろしくてできませんでした。
そして、
自分が「人の弱みに付け込んで攻撃する感情」を持っているかもしれないことに、恐怖を感じました。
それ以降、「人の弱みに付け込んで攻撃する感情」が顔を出さないように、
中学校、高校、大学、、その時々で言葉は変えながら、次のことを肝に銘じて過ごすようにしています。
すべて、「もしかしたら自分は暴走してしまうのではないか」ということへの恐怖感に裏付けされてます。
- 「弱い人間につけこむようなことは、絶対にしない」(原則)
- 「自分が優位に立ちやすい関係では、暴走する可能性を忘れず、冷静になれる余裕を必ず持つ」(自分を常に監視する)
- 「相手の中に、自分が付け込んでしまえるかもしれない「弱さ」を見つけてしまったら、自分より優れている部分を必ず探す」(優位性の発見)
- 「心理的に頼ってくるような人には、危ないから出来るだけ近寄らない」(心理的依存を求めるものからの回避)・・・これは必須。心理的に頼ろうとする人(共依存を求める人)は、本人自身が問題と気付かない限りどうしようもない。
- 「自分で生活ができない人は、パートナーとして選ばない」(経済的依存を求める者からの回避)・・・経済的に弱い部分以上に「自分より優れている点」があると感じることができれば問題なし(ただし、バランスは難しい)。時が経つうちに優位に立っていると勘違いしてしまう可能性あり。
- 「人の意見に寄りかかることしかできない人には近寄らない」(思考の依存を習慣化している者からの回避)
- 「相手を信じる」(相手を存在を認めて尊重する)
社会人3年目の時に、
「自分の寂しさを人に満たしてもらうことを依存的に求める女性」に対し、
彼女の心の大きな闇と、自分が壊されるかもしれないという大きな恐れを感じました。
ただ、その点を除けば、彼女は自分と比較ができないほど、本当にできた人でした。
「自分を頼ってくるような人に近付くと、
相手の弱みに付け込む攻撃の感情が顔を出すかもしれない」
今回初めて文章としてまとめてみましたが、
「「依存されることは恐怖」という脅迫的な感情を、よくいつも持ち続けていたものだ、、」と、
第三者的に、少し冷ややかにも感じてしまいました。
もしかしたら、見えない恐怖が、心の中でどんどん大きくなりすぎていたのかもしれない。。。であれば、もう少し小さくできるかも、、、
なにやら、改善の糸口が見つかったようにも感じました。
今日もありがとうございました。
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