私には、打算的なところがあります。
なぜそんなことまで。。。ということまで考えてしまう。
というより自然と意識してしまっていると言った方が正確かもしれない。
いつも相手の様子や気持ちを窺い、自分の心を疑って、
どうすることが「一番いいのか」、どうすれば「良かったのか」について、
いつも物思いにふけって考えている。
(ヒマ、、と感じた記憶がない。正直にいうと、出来るものなら、私もそのような気持ちになってみたい。。)
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この捉えどころのない「一番いい」という観念は、曲者である。
実際に説明しようとすると、意外に難しい。
- 自分にとって「一番いい」のか【損得勘定】
- 自分の理想を達成するために「一番いい」のか【自己実現】
- 今、目の前にいる相手にとって「一番いい」のか【相手の幸せ】
- 自分が所属する集団(家族、友人、地域、会社組織など)にとって「一番いい」のか
- 社会全体にとって「一番いい」のか
- 人の在り方(人が持つべき権利、人権のような観点)にとって「一番いい」のか
「一番いいい」を決めるための「観点」は、探せばまだ出てくるだろう。
そして、厄介なことに、
「一番いい」と思っていたはずの結論も、
「観点」を変えた途端に、色褪せてしまう。
更に、
自分が「一番いい」と思った考えを、
目の前の他人と「相互に理解」(※)したい、、と望んだ途端に、
想像を超える困難に直面する。
もし本当に「相互に理解」したいと思っているのであれば、
二人の強い覚悟と、絶対的な信頼感が不可欠であるように感じている。
(※)相手を理解し、相手から理解してもらうこと。ここでは行動を求めることまでは想定していません。
そして、たとえ同じ「観点」を選択することができたとしても、
往々にして異なる結論に到ることになるだろう。。。
これには、それぞれが持つ「人生観」のようなものが関係しているように感じている。
- 個々の個人が、これまでの人生の中で作り上げてきた「信念」「考え方」【意識的選択(意識的に獲得したもの)】
- 考えるまでもなく「当然のこと」として受け入れている「常識」【無意識的選択(生育環境中で無意識的に獲得したもの)】
- 周囲から求められる「結果・目標」に応えることに対する「強迫観念」の程度【承認欲求?】
したがって、
「一番いい」「これであれば間違いない」という個人の考えについて、
自分でない他人と「相互に理解する」ことを希望しても、
達成することは「ほぼ無理」(極めて大きな困難を伴う)と考えておいたほうが良い。
(・・・今回のことで、理解し合うことは「ほぼ無理」だとやっと解りました。理解し合える良好な関係性を築くことに、過度の期待感を抱かない。思っているほど何もできません。)
というのも、
目の前にある「一つの決断」について、「相互に理解」するためのステップでは
相手の人としてのあり方・考え方に疑問を感じてしまうかもしれない、相手の中にある「大きな問題(タブー)」
に触れなければならない状況が、往々にしてあると考えるからだ。
「相互に理解したい」のであれば、越えなければならないステップ・・・
- 「観点の選択」に対して相互に納得して、理解できること
- (幸いにも)「観点の選択」について理解し合えたとしても、「個々の生き方」に基づく「信念」や「常識」について、お互いに正面から向き合い、「事実」として何も言わずに、心から受け入れるという困難を乗り越えること(・・・個々の「正直な気持ち」(願望や希望ではない)について、批判せずに「共感」できること)
- そして、導き出された「一つの決断」について、相手を理解して尊重すること
書き出してみると、ステップはわずか3つだけだった。
ただ、特に2点目については、お互いの並々ならぬ覚悟がない限り、
容易には乗り越えられない(乗り越えることは、ほぼムリ・・)、苦しく険しい道になるように感じている。
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日頃の生活をスムーズに進めるために、
「相手を尊重する」ことはとても大切だと思っています。
この心地の良い言葉に疑義をはさむ人は、あまりいないでしょう。
ただ、「相手を理解して尊重する」とした途端に、ハードルが非常に高くなります。
「相手を尊重する」ことだけであればできていた相手ですら、
「相手を理解」し始めた途端に、
「個々の生き方」について、お互いに向き合い、受け入れることが求められるため、
もしその中で、相手の生き方や考え方に不信感を感じてしまうと、
以前のような「表面的な相手の尊重」ですら、できなくなるおそれがあるのではないか、と感じています。
「相手を尊重する(尊重しておくこと)」を達成すればよいだけなら、
- 相手との適当な距離感をとって、
- 「個々の生き方」に基づく「信念」や「常識」までは深入りせず、
- 日頃の関係の中で「相手を理解できている」(※)ことにしておけばよい。
(※)「あなたはそう思うのね・・」と受け入れ、相手のことを深く理解したいとは思わないようにする。
そして、たとえ少しくらい嫌な相手でっても、
ノラリクラリと受け答えをしながら、
ひとまず「割り切った」関係として続けることであれば、
それほど難しくないように思います。
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ただ、
「他人と考え方について『相互に理解』する」(※)ことを望んでしまったとき、
状況は、非常に複雑となります。
(※)相手を理解し、相手から理解してもらうこと。ここでは行動を求めることまでは想定していません。
もちろん、
家族や夫婦間のような、密な関係性を持つ集団(逃げたくても逃げられない)であれば、
「相手を理解して尊重する」ことができれば、とても素晴らしいと思います。
私も、自分は考え方が全く異なる妻のことを「しっかり理解したい」と考えていました。
二人だけのころは、小さな願望でしたが、
子供が生まれてから、徐々に「理解し合うこと」に対する焦りが増してきていたように思います。
でも、全くと言っていいほど、叶いませんでした。
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この続きは次回にお話しさせてください。。。
<悩んでいること>
★「理解して尊重できる」⇒ 「尊重したなら行動すべき」・・・短絡的であり問題。両者に関連性はない。
★行動を求めるべきでないのなら、どのように状況や気持ちを整理すればよいか??
・金子みすゞ「みんな違ってみんないい」の結論?
・でも集団を維持するためには、個々がバラバラ過ぎても、別の問題が起こる。
・「尊重という名の無関心」とならないように、どこかで歯止めをかける必要はある。
★自分だけの生活なら気にならなくても(何があってもだいたいは乗り越えられる)、
「家族という集団」になったときの上手い解決策について、なかなかしっくるとくるものが思いつきません。。
・・・ただ、きっと答えは、意外なほど簡単なはず。。。と思ながら、考えています。
今日もありがとうございました。
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