相手の存在を全く感じられない日々が続くと、
相手への不信感や、不安な気持ちが、顔をのぞかせる。
そんな気持ちを持つことなんて、自分は望んでなんかいないのに、
夜になると胸の中が騒めき始めます。
朝は、何も感じることはありません。
「3人は元気にしてるかな。。」「体調は大丈夫かな。。」
「朝ごはんちゃんと食べているかな。。」
心の隅でそんなことを感じながら、
部屋の掃除をして、少し運動をして、本を読んで、出かけます。
ただ、昼になり、夕方になり、夜になるなるにつれて、
どうしようもないほどの騒めきと動揺が押し寄せてきます。
- 相手の存在を全く感じることができないことへの不安感
- 不安感から生まれてしまう、相手への不信感
- 次第に大きくなる感情の波に、つぶされそうになる自分
- そして、家族への大きな不信感を感じてしまう自分に対する嫌悪感
そして、自分の空っぽの心の中で、葛藤が始まります。
「なんで家族のことを信じられないんだ」
「そのくらいの気持ちを抑えられなくて、どうする」
「そんな気持ちを持つのは、すぐに止めろ!」
もう一人の自分が、何とかして不安感を打ち消そうと、躍起になっています。
理性的に現実を認識しようとすること。。
『ありのまま』の現実を見返して、自分の気持ちが暴走していることを意識すること
によって、ひとまず、自分の中で葛藤を生むことは、できているようです。
今のところ「私だって・・・」と言いたくなる気持ち(他責にしたくなる衝動)に負けたり、
自分が置かれている状況から逃げ出したりは、していません。。
ただ、いつものことながら、
分かってはいても、やっぱり心が言うことを聞いてくれません。
感じた気持ちをノートに書き出してみたり、無理して歌ってみたり、縄跳びをしたり、
腹筋をしたり、長風呂をしたり・・・
色々してみましたが、、なかなか上手く行きません。
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そんな時に、小説なんてあまり読むことのなかった高校生・大学生だった私が読みふけっていた小説に、久々に再会しました。
青春ラジオアドベンチャー(HHK-FM)でも放送された恋愛小説。。
「おいしいコーヒーのいれかた」(村山由佳 著 )
高校生のショーリと、5歳年上の従姉のかれん(実は養女)、
二人の絶妙な距離感を描いた、切なくも、もどかしい、長編ラブトーリー。。
ドロドロ感はなく、ゆったりとした時間の中で、ゆっくりと話が展開していきます。
そして、二人は少しずつ変わり、徐々に自立していく。。
通勤電車の中や、職場の昼休みに、人目を気にせず読みふけっています(←自分を隠すことなくオープンに!恋愛小説バンザイ!の気持ちです。でもきっと誰も気にしていない。ブックカバーはもういらない)。
今になって、もう一度読み返してみると、
高校生・大学生だった当時の想いも蘇り、心が一杯になってしまいました。
そして、いつの間にか、心の中を埋めていたどうしようもないほどの不安感は、消えていました。
この気持ちの変化の影で何が起こっているのか、まだ私にはわかりません。
- 現実から小説の中に逃避しているのか、
- 若かりし妻に感じていた自分の嘘のない気持ちと重ねているのか、
- 日頃の「理論的・戦略的」な世界とは真く異なる、情緒的な感情で満たされた世界を再認識することで、凝り固まった自分の心がほぐされているのか、
・・・ただ、一つ言えることは、
何か大切なことを忘れていたような気がして、涙が出そうになっていること。。
毎日のように恐れていた「どうしようもない不安感」は、
本を読み始めてからの数日間は、ひとまず上手くコントロールできています。
きっと、この「どうしようもない不安感⇒不安感の解消」という劇的な感情の変化の中には、何かあるはず、、
この変化の裏側にあるものに気付けば、何か大きな発見がある気がする、、、
そして、
最終的には、簡単な言葉で説明できてしまうような気もしています。
「相手への信頼」「感情を伴うコミュニケーション」
「感情と理性のバランスを上手にとって健康な心になる」
このあたりが、キーフレーズになるのかなと思っています。
著者の村山由佳さんは、
「おいしいコーヒーのいれ方IV~雪の降る夜より」のあとがきで、
このようなことも、しっかりおっしゃっています。
人は基本的に一人です。
生まれてくるときも一人だし、死ぬときもたった一人です。どんなに愛している人と抱き合ったとしても、その人の全てを理解するなんてことは不可能なのだし、あなたの苦しみや悲しみをその人がすべて理解してくれると思うのも、幻想にすぎません。
相手が傷ついているのを見て、どれほどその傷を肩代わりしてあげたいと思ったところで、それは無理。だって、あなたはその人じゃないし、その人はあなたじゃないんだから。人間はみな一人ぼっちです。
「二人のうちどちらか片方でも、自分一人で立ってられないような人間だったら、そんなの、恋愛じゃないでしょ?」
その通り。それは「恋愛」ではなくて、ただの「依存」であり「もたれ合い」にすぎません。
そういう考え方って、寂しいと思いますか? でも、そうした覚悟を決めない限り、--つまり、一人ひとりがそれぞれ別々の人間なのだから、自分の足で立ち、自分の力で何とかするしかないんだ、というところから出発しない限り--あなたと、あなた以外の誰かがほんとうの意味で関わり合うことなんてできっこないのです。
私は昔から「傷のなめ合い」という言葉が好きではありませんでした。強く反発していました。
そして、「人に依存しない自分」を手に入れたつもりでいました。
でも実は、依存したくてたまらなかった気持ちの裏返しだったのかもしれません。。
人の気持ちは複雑。。。でも、自分の気持ちに正直になりさえすれば、それほど複雑なんかじゃない。。
そして、村山さんは続けます。
欠点を補い合うだけじゃなくて、長所も伸ばし合える関係。
相手が「できない」と思いこんでしまっていることを、「できるかもしれないよ」と言ってあげられる関係。
そういう関係って素敵だし、恋人同士でそれができたなら、もっと素敵だと思いませんか?
全く異なる二人が時間を共にするためには、恋人でも、夫婦でも、いつでも大切なことだと、今になって感じました。何かに恐れて「親であれば〇〇すべき」なんて考えすぎるんじゃなくて。。
私は、引き続き、自分と向き合っていこうと思います。
何より、気持ちを落ち着かせる方法を見つけられてよかった・・・
今日もありがとうございました。
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