Yasukun-papa は「おひとりさま」

やすくんパパ の思いをつづる、Liveなブログ。。

久々の深夜帰宅から見えた自分 ~『3つの考え方』による心境の変化

 

久々に、日が変わってから家に着いた。

最寄りの駅前は、タクシーの列。毎日のように見ていた、少し懐かしい光景。

定時帰りを ”上” とすれば、今日は ”中の上” あたりだろうか。(※)

 

一昔前なら「まずまず」といえるけれど、

定時帰宅を宣言をしたのに、私は一体何をやっているんだか。。。

 (※)上の上(休暇・早退)>上(定時帰宅)>上の下(程々残業)>中の上(深夜残業)>中(終電帰宅)>中の下(深夜バス+タクシー)>下の上(深夜バス+徒歩)>下(長距離タクシー早朝帰宅)>下の下(始発帰宅・定時出勤 or 職場宿泊)

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私は、あの日以降、定時帰宅の味を知りました。

定時帰宅を知った自分から、深夜まで仕事をしてきた自分を観察してみると、

心と体の様子いつもと違うことに気付かされます。 

  • 何でもいいから、座りたくて横になりたくてたまらない。
  • 若者が騒ぐファストフード店でもいいから、一休みして帰りたくなっている。
  • 駅から家までの徒歩数十分の道のりが、長くてたまらない。。
  • 途中のコンビニの光に、吸い寄せられそうにる。そして、何か買いたくなる。
  • どうしようもないほど、心と体が重い
  • 今日の仕事、明日の仕事のことばかり考えてしまう。
  • 他のことを考えようと思っても、仕事の心配心の端に引っ掛かり続けている。
  • 帰宅して「少し横になろう」と思ったら、居間の床でひと眠り
  • 新聞配達の音で目覚め、布団に入り直す
  • そして朝起きてシャワーだけ浴びて出勤。。。

 

こんな自分に、

「心も体も、ボロボロになりかけているよ。」と言ってやりたくなります。

 

こんな毎日を繰り返していた「過去の自分」には、大きな声で言いたい。。

「あなたの時間はどこに行ったのか?」「自分を取り戻してほしい!」と。

 

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今回、ここまで帰りが遅くなった理由。。。

  • 期限ぎりぎりになって、意図をつかめないレポートが同僚から送られてくる。そして彼はいつの間にやら夏季休暇へ突入。【バカンス前の中途半端クオリティー。。】
  • 進捗がはかばかしくないプロジェクトが発覚し、カウンターパートを呼び出し。そして、要領を得ない言い訳の数々。。【挟まれて大変なのはわかるけどね。。】
  • 社内のシステムの不調(SEさん、ガンバレ!)
  • 以前にも出てきた、いつもの女性(※)からの、突然の感情的な電話。話が長い割に状況がつかめない。どうやら今度はトラブルが起きたらしい【「何とかしてほしい」とだけ言われても困ります。もちろん私も解決策を考えるから、まずは落ち着いて!!】

 

日常の仕事に加えて、予定外の仕事が立て込む状況。。

定時帰宅宣言をして早く帰ると決めていたのに、外からの邪魔が入る状況。。。

 

きっと一昔前の私なら、

心の中で燃え上がる怒りを抑え込み、怒りをエネルギーに変えて仕事を片付けていた

はずです。

 

ただ、今回の状況での自分の行動を思い返すと、

「早く帰りたいのに、マイッタ、マイッタ」と思いながら、淡々と仕事をこなしていました。

そして、

会議に重ねて夏季休暇を入れた彼」

要領を得ない説明を繰り返すカウンターパート」

調子の悪い社内システム」「内容のない長電話の女性」に対しても、

どういうわけか、今までのような怒りは感じていませんでした。

 

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「定時帰宅の味」を知ってから(私のDVが原因で妻と子が家を出て行ってから)、

自分と正直に向き合い考える機会を得ました。  

 

そして、「仕事が立て込んで帰宅できなくなったこと」に対する私の行動では、

自分と向き合う中で出会えた「つの考え方」が役に立ったように感じています。

 

まず、一つ目の考え方

 ① 「怒りのエネルギー」を自分自身にぶつけることで、自分の中に「問題解決の原動力」を生み出すことの危険性について意識すること

以前の私は、「怒り」困難を乗り越えるための有効な方法と捉え、他人に気付かれない限り問題ない(自分の原動力に用いるのであれば問題ない)と信じていました。

しかし、怒り」から生まれた「爆発的な力」を用いて問題を上手く乗り越えた場合、「周囲をコントロールできる」という考え方につながる可能性があことを、カウンセリングで教えられました。

  •  怒りや腹立たしさは大きなエネルギーがあるから、そのエネルギーを使うと、いつも以上の結果が出せるかもしれない。そして、直面する問題の解決にも、役立つかもしれない。結果的に、自信や、周囲からの評価につながることも多いと思う。
  • そして、「直面する問題を解決した」ということは、直面した問題、置かれた状況を「自分のやり方で解決できた」という自信にもつながる。
  • 相手のあることであれば、結果として「他人を自分のコントロール下に置く」という状況も伴うかもしれない(たとえ、積極的な意思を持っていなくても)。
  • この「怒り」⇒「問題解決」の経験を繰り返すと、もしかしたら「自分は周囲をコントロールできる」「思い通りにできる」という気持ちを、無意識的であっても持つことになるかもしれない
  • ただ、人は自分の思い通りになんて簡単に動いてくれないそれぞれが、色々な考えを持って生きている(当たり前のことですが、本当に胸に沁みました)。
  • 「怒りのエネルギー」を使うときには、「自分は周囲をコントロールできる」と勘違いしてしまうかもしれない岐路に立っていことを、少しだけ気にしておいてもいい。

(⇒  他人を「カエルコトハデキナイ」。でも、自分の感じ方や行動であれば「カエラレル」(その1) ~何も見えなくなっていた日常からの第一歩 - Yasukun-papa は「おひとりさま」 より)

「怒り」を利用することが、これまでずっと嫌悪感(※)を抱いていた「他人をコントロールする/される」という結果につながる可能性があることなんて、それまで思ってもいませんでした。

この話を聞いた時、本当に驚かされたことを覚えています。

「怒り」を肯定的に捉えていた見方は、何の躊躇もなく「嫌悪」に変わりました。

(※)父親の言う通りに行動することを求められ続けた子供時代の反動のように感じています。

 

 

そして、今までの私が持っていなかった斬新な二つ目の視点。。

 ② ”私だって・・・”といいたくなる気持ちは忘れて『自分の加害性』に着目すること

  • 相手からの不快な行為(痛み・被害性)に意識を向けそうになったら、『自分の加害性』相手の行為を原因として自分がとるかもしれない行動・感情)について想像する。
  • 可能であれば、「被害性」を意識することを一旦やめて「自分の加害性」だけに着目してみる(※1)
  • そもそも、『加害性のない人』なんていないことを受け入れる(程度の差だけ。善意の行動であっても、加害性がある可能性について留意する)。
  • 『自己の加害性』は、周囲や自分にとって、良い影響を与えないことに納得できる(※2)

(※1)相手から受けた理不尽な行為(痛み・被害性)に意識を向けすぎると、『自分の被害者意識⇒モヤモヤ・腹立たしさ⇒相手に対する苛立ち(自分の加害性)⇒苛立ちの伝達⇒相手の被害者意識⇒・・・』の悪いサイクルが回り始めます。

(※2)加害性が生まれる背景として、①相手から直接受けた被害に対する反応(直接的な反応)、②自分が触れられたくない問題(具体的に意識していない場合もあり)に触れられることを回避するための反応(自己防御の反応)、に分けられるように感じています。

 

「『自己の加害性』は、周囲や自分にとって、良い影響を与えない」という考え方については、何の違和感もなく受け入れることができています(※3)

今回の、周囲から受けた直接の被害(仕事が立て込み、帰宅できなくなった)についても、「帰れないことに対する不満」(被害者意識)に執着することなく、被害者感情に振り回されることもなく、淡々と処理することができました。

(※3)マクロの観点からは違和感は全くありません。ミクロの観点(自分の問題、生育環境を原因とする問題)については、まだ少し消化しきれていないところがあります。ただ、消化する方法だけは最近気付けた気がしています。。(目を背けたいような心の痛みに気づき、逃げずに向かい合う必要がある。)

  

 

 最後に、当たり前だけど、重要で、忘れがちなこと。。

 ③他人を「カエルコトハデキナイ」、「カエラレル」のは自分の感じ方と行動だけ

これはもう説明不要なほど、自明です(以前の自分は気付いていませんでした)。

一人の自立した他人を、変えようと思ってはダメ。そして、変えることなんてできない

もし、対等な相手から「教えてほしい」とお願いされたら、そのこと自体に違和感を感じたほうが良いと思います。(頼られると、少しうれしい気もするんだけどね。これがアブナイ。)

  • 自分と相手は対等です。
  • そんな関係で、人を変えようとするなんて無駄なことを考えてはだめ。
  • そして、それぞれの問題は各自で解決するのが当たり前
  • もし、相手から当然のように頼られたら、これは完全に赤信号ただの依存です。もちろん、自分も頼りたくならない。

久々に再会した恋愛小説「おいしコーヒーのいれ方」村山由佳著)でも、

若い読者に対して、村山さんは、優しく釘を刺しています。

最近、こんな言葉に出会いました。

「人の顔さえ見れば教えを乞いたがる人がいるが、そういう人には何も教えてやることはないし、また、人の顔さえ見ると教えようとする人からは何も学ぶことはない」

作家であり教育家でもあった、下村湖人という人の言葉です。

とても厳しい言葉だけれど、妙に心にひっかかって残ったのは、これまで私が小説やエッセイを通して繰り返し書いてきたことと、どこかで重なっていたからかもしれません。

「教えを乞いたがる人」とはつまり、自分の足でしっかり立っていられない人のことだろうし、

「教えようとする人」とはつまり、相手が自分と違う考え方をするのが許せない人のことでしょう。

どちらも、私たちの誰もが陥りやすい穴であり、陥ってはならない穴だと思います。

 (「おいしいコーヒーのいれ方Ⅱー僕らの夏」あとがきより)

 

 ただ、「カエルコトハデキナイ」と言っても、相手の嫌なところは変わってほしいと思うのは、人の常。。

こんな時は、少しだけ自分の心に余裕をもって、

「② ”私だって・・・”といいたくなる気持ちは忘れて『自分の加害性』に着目する」

という対応ができれば、素晴らしいことだなと思います。

そのためには、自分の心に余裕を持ち続けることを心がけ、自分自身を追い込まないことですね。

  • 仕事は当然のように、自分の時間、思考、余裕を奪っていくことに危機感を持つこと。
  • 一度奪われてしまうと、問題を解決しようとする心の余裕すら無くなること。
  • 一つのことに没頭(執着)している自分に気付いたら、危険信号だと気付けること。

今になって感じる、気を付けたいポイントです。。

 

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以前の私なら、

心の中で「イラっ」と感じて怒りをエネルギーに変えて対応していたはずだけれど、

今回は、今までとは少し違う行動をとれていたこと、、

ひとまず、以前と全く変わっていないということじゃなさそうなので、ひとまずよかった。。。

でも、マダ アンシンシテハ イケナイ。

 

他人を「カエルコトハデキナイ」。

でも、自分の感じ方や行動であれば「カエラレル」

 

自分の問題は、しっかり自分で解決していこうと思います。

周りに助けを求めることも躊躇せず。

ゆっくり、でも着実に。。

 

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今日もありがとうございました。

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