久しぶりの青空。
空を見ていると、心も少し晴れる。
今回のことがきっかけで、
これまで気付いていなかったり、無意識に避けていた、
「見方や考え方」に接する機会が増えている。
ただ、接するだけで良いなら簡単なのだけれど、
自分の中に取り入れようとすると、「厄介な問題」に直面する。
- 接した見方・考え方に対する自分の解釈は本当にあっているのか?
- 今まで自分が持っていた考え方と、どのように調整を付ければよいのか?
- 今までの考え方と相反する場合、切替えてしまってよいのか?
- 切替えた場合、きっと心理的にも大きな苦しみを伴うはず。
- そして、切替えた場合、それは、信仰にも似た依存状態(自己完結型の洗脳)に繋がる可能性があるのではないか?
- 安易な気持ちで切替え、依存し、そして上手く行かなかった場合、自分で解決することはできるのか? 誰かを頼らないと解決できなくなってしまうのか?
- そして、安易な依存がきっかけとなり、ずるずると周囲に依存する人間になってしまうのではないか?
ただ、実際のところは、「厄介な問題に直面」なんて大げさに言うよりも、
「いろいろ悩みを膨らませると、すっごく不安になるんだよね~♪」
あたりの表現がちょうど良いのかもしれない。
だって、5つ目以降の「厄介な問題」なんて、自分の中の不安が増長しているだけだから。
避難訓練後の消防士さんの「いつもの話」も参考にさせてもらって、
「重大だと感じたことは落ち着いて、大したことないと感じたことはしっかりと」
という考え方で進めればいいのかな~って思う。
命を懸けている消防士さんたちの言うことは、
それだけで、積み重ねられれた深い意味を感じられますしね。
ということで、
「新しい考え方を取り入れるときは、結構不安なんだよね~。もしかしたら間違って捉えちゃってるかもしれないしね。 」
「でも、自分の解釈や捉え方が違っていたって、自分に嘘を付かず前向きに進もうとしているんなら、まぁいいさ!」
「上手く行かなければ直せばいいだけだから。」
と考えることにして、
深刻に思い悩みそうになっている問題こそ、
強いて冷静に、落ち着いて進めることにしたいと思います。
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前置きが長くなったけれど、あれからずっと思い悩んでいる問題。
「自己の加害性を認める」ことは、自分にどのような影響を与えるのか。
宗教的な観点からの解説も深そうですし、その道の専門家に当たれば、
ちゃんとした解説を受けることはできるように思います。
ただ、解説に当たってみたものの、私自身は「加害性を認める」ということの真の意味について、実感を伴った理解ができているのか、全く自信がありません。。
ということで、
ここでは「無理せずカッコも付けない自分」が、
ひとまず自分で思い至って、納得できたところまで、忘れないうちに言葉にしておこうと思います。
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「自己の加害性を認める」ことにより、どのような結果が期待できるのか?
(1)まず「自己の加害性」とは何か?
- 相手の言動に不快感を持った場合、心の中に生まれた「被害性」(不快感に対する負の感情、心の痛み)を意識し、相手に反応(反発)したくなることがある。【外的要因による不快感の発生】
- また、外的要因が原因となるだけでなく、自分の心の中にある「不安感」「心理的な不安定さ」からも、反応(反発)したくなる気持ちが生まれることもある。【内的要因による不快感の発生】
- ここでは、外的・内的要因を原因として、「相手に反応(反発)したくなる欲求」「相手に向けられた不満・言動(※1)」を「自己の加害性」(※2)と呼ぶことにしようと思います。
(2)「自己の加害性」をどのように捉え、処理するか?(過去の私の捉え方より)
- 程度の差はあるものの、全ての人は「自己の加害性」を持っています。
- しかし、多くの場合、人は「自己の加害性」よりも相手から受けた「被害性」に意識を向けがちです。
- この場合、「自己の加害性」は、相手から受けた「被害性」や心の中にある「不安感」によって正当化されます(「相手が原因だった」「〇〇でなければ、そんなことしなかった」という気持ちを持ってしまう。「被害性」は「自己の加害性」に気付くことを邪魔する)。
- 「自己の加害性」が正当化されることにより、相対的に被害性(不快感に対する負の感情、心の痛み)に意識が向き、心の中の「被害者意識」は次第に大きくなっていきます。
- そして、小さな被害を受けただけでも、敏感に感じ、いつも以上に反応してしまう可能性があります。(「また○○をやられた」「あの人は何度言っても○○してくれてない」という感情を持つ。更に、諦めや人格否定などに至ることもある。)
- そして、「自己の加害性」(※1)に対する歯止めが利かなくなる。
(※1)「加害性」は、相手に対して言葉、力、嫌悪感、否定 という形で現れる。
(※2)今回は、自分の心の不安定さを原因として、相手に向けるものに限定します。もう少し広く捉えると、「自己の加害性」は「相手に不快感をを難じさせること全て」と捉えることが適当なのかもしれませんが、まだ上手く説明ができません(自己の存在に対する罪の意識、究極的な謙虚さ、として説明できそう泣きもしますが、まだ表面的な説明しかできません。)
(3)「自己の加害性」を意識することにより得られる結果
① 人間関係の観点から(マクロの観点)
⇒ 人間関係悪化に至る状況に気付く「きっかけ」になる。
<関係悪化のスパイラル>
自分「被害を意識 ⇒ モヤモヤ・腹立たしさ・自己防衛⇒ 相手への加害(力・言葉・嫌悪・否定)』
⇒ 相手「被害を意識 ⇒ モヤモヤ・腹立たしさ・自己防衛 ⇒ 相手への加害」
⇒ 自分・・・
(→ http://www.yasukun-papa.com/entry/2017/08/25/2330 より)
② 自己の問題を振り返る観点から(ミクロの観点)
⇒ 自分の中の問題に気付く「きっかけ」になる。
<自分の中の問題を探して、認め、自分と誠実に向かい合うこと>
- 「自己の加害性」を意識し、存在を認めることができれば、加害性が生まれた原因について考え、感じようとするきっかけになる。
- 自分の心と向かい合い、加害性が生まれた原因(痛みの元、自分の中の問題)を見つけることができれば、その原因を認め、和らげようとしてみる。(時には助けも借りながら。)
自分の中の問題と向かい合い、上手く受け入れられることができれば、痛みも生まれず、加害性も生まれず、自分も楽になる。
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『「無理せずカッコも付けない自分」が、
ひとまず自分で思い至って、納得できたところまで、忘れないうちに言葉に・・・』
ひとまず、こんなところです。
「自分の加害性にだって、理由はある」
「加害性はダメなこと」「人を傷つけることはダメ」
「自分が嫌なことをやっちゃいけない」
これはもちろんなんだけれど、
「加害行為をするか否か」というギリギリのラインに追い込まれた状況で、
実際にするか、我慢できるかを試された場合、言われた側は結構苦しいものです。
これまでの私は、
「自分に痛みを与えてくる相手の事情を理解できれば、やむを得ないと納得できる」
と考えて、自分の周りで起こる色々なことを許してきました。
本当は、自分の心が痛くてたまらなくても、
相手を理解し、自分を納得させ、耐えればよいと考えていました。。
確かに、この考え方は、自分の気持ちをコントロールする上で、相当の効果がありました。しかし、何年も耐え続けた末、自分の限界を超え、最終的に破綻しました。
ただ、当時の私は、
もう一つ奥に隠していた自分の気持ち(無意識的に守っている自分の心の問題)には、気付けていませんでした。
ただ、「痛みの元」(問題の大元)を意識して、
しっかり問題に向き合い、根っこから処理する(上手く受け入れられるようになる)ことができれば、何かいいことが必ず起こる気がしています。
そして、最近いくつかの「痛みの元」に気付き、目を逸らさずに向かい合うことで、
心の中にあったわだかまりが、少しづつ溶けて行くような気持ちになりました。
まぁ、ひとまず悪い方向に向かっていないみたいな感じがしています。。。
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『 「自己の加害性を認める」ことにより、どのような結果が期待できるのか?』と
一週間後にもう一度聞かれたら、
「よく考えたら間違ってるところに気付いたから、少し見直すことにした」と言ってしまうかもしれません。
でも、言うことがコロコロ変わっても、気にしない。
何かに気付いてしまったら、考え方や行動なんて、簡単に変わってしまいます。
- 現在の自分から導き出せる考え方はここまでで、考えに至る過程では、自分の良心に誠実に、嘘を付かずに導き出している。
- 目の前には、今までの考え方に縛られていた世界とは違う、新しい考え方の世界が広がっていることは間違いない気がしている。
- そして、心理的につぶされそうな気持は、楽になってきた。
このことだけなら、私も胸を張ることはできます。。
「今までお前がやってきたことを考えよ!言える立場か?」と聞かれたら、ただ謝ることしかできないんですけどね。。
一度決めた考え方に、固執なんてするつもりはありません。
たとえ風見鶏と言われても。
ずっとモヤモヤして纏められなかったけれど、
ひとまず自分の中で納得できたところまで、何とか言葉にできました。。
私の心の中の「触れてはいけなかった部分」が、
白日の下にさらされ、向き合い、「心の中のタブー」が少しずつ消化されていくこの気持ち。。。
引き続き家庭内の問題は継続中ですが、
自分自身の問題はしっかり切り分けて、少しづつ前に進んで行こうと思います。
執着と依存と没頭(※)は本当に怖いから。。ぼちぼちとね。。
(※)一つの考え方、仕事、習慣、価値観、こだわり、、、
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ。
自分が起こした失敗や問題に対して「被害者意識」なんて持ちません。
自分の事情を説明して、理解を求めようとなんてしません。
理解してもらって、安心したいなんて思いません。
日頃の生活の中でも「自己の加害性」を感じながら、毎日を謙虚に過ごそうと思います。
- 自分の問題は、直視する。
- 人のせいにしない。
- 問題の対応を先延ばしにしない。
- 忘れようとしない。
言葉にしてしまうと、
今日の空のように、なんか気分も良いものです。
でも、この考え方を周りに強要することは、「ダメ、ゼッタイ!」です。
他人を「カエルコトハデキナイ」。「カエラレル」のは自分の感じ方や行動だけ。