最近どういうわけか、上司か優しいのです。
といっても、「毎度の小言」を言われることが少なくなった、というだけです。
上司からは、妻の出産前後に急な休みを何度も取ることになった私に対して、
個人的にも、全体のミーティングでも、「小言」を繰り返し言われ続けていました。
- 「やむを得ないことはわかっているけど、仕事くらいは、ちゃんとやってほしい。」
- 「一体いつになったら、子供や家族のために休むことが無くなるのか教えて。」
- 「そんなあなたには、危なっかしくって仕事はあげられないし、ウチの部署にあなたにあげられるような仕事があると思う?」
- 「あなたは要注意人物だから」「目をつけられているんだからね」「気を付けたほうがいいよ」
1年近くが経ち、彼女から「小言」を言われることは、少なくなりました。
私も、少々のことなら上手く切り返せるようになってきたんですけどね。。
そして、今までのように仕事が振られ、あとは放置される日常に戻りつつあります。
仕事が振られ、あとは放置。。。
これは、プライベートと仕事のバランスを変えようとしている私にとって、大変有難いことです。
- 「定時帰宅宣言」をしても「いいことだね」と言われ、
- 自由に有給休暇をとっても「取れるときに取ればいい」と言われ、
- 突然休んでも、仕事に支障がなければ、周りからは何も言われない。
一方で、
- 何かが起これば、自分が解決せざるを得ないし、
- 解決に手間取れば、仕事は終わらないし、当然家にも帰れないし、
- 自分の仕事を助けてくれる同僚も、そもそもいない(担当制なのです)。
という苦しさもありますが、
自分で上手く立ち回ることさえできれば良い話だと思っています。
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そういえば少し前の打ち合わせで、上司が何やら言っていました。
- 「こっちだって誰に仕事を振るか考えるの、結構大変なんだから。」
- 「でも信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」
- 「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」
- 「一度任せたらいちいち状況を確認するつもりはないし、やってくれてるのならそれでいいから。」
- 「何かあれば、早めに教えてくれたらそれでいいよ。」
意外と良いことも言うと思いつつ、
「人を信じること」とは何なのか、少し考えさせられました。
- 一体何があれば、人は相手を信じることができるのか。そして、信じることができなくなるのか。
- 信じるためには、「なにか」が存在していることが必要なのか。
- 「なにか」があれば、信じることができるのか。その「なにか」とは何か。
- 「なにか」は、相手から与えられるものなのか、自分の中にあるものなのか。
- それとも、第三者から与えられる「保障」「裏付け」のようなものなのか。
- 「直観」で信じるのか、「納得」できれば信じるのか。
- 信じたいという「想い」があるから、信じようとするのか。「想い」の中には、もう一つの「別の気持ち」が隠されているのではないか。
- 信じるためには「時間」が必要なのか。それは何のための「時間」なのか。「時間」をかければ信じられるのか。
- 人を信じられないのは、相手に「問題」があるからなのか、自分の中にある「問題」も原因なのか。そして、相手の「問題」が解決されれば、信じられるようになるのか。
- 「問題」が解決されたことを、どのような方法で認知できるのか。
- 目に見えないものを「解決した(された)」と感じるためには、結局「信じる」ことが必要となるのではないか。
- 問題が「解決した(された)」という状況は、存在し得るのか。相対的な意味合いで捉えればよいのか。
- やっぱり、人を信じるために必要な「なにか」なんて、何もないんじゃないか。。
- だとすれば、もし「相手を信じられない」のであれば、「信じたくないと感じている」だけなのかもしれない。
- ただ、この結論に至るまでの考え方を、自分の中で、言葉にできるほど纏められているわけもはない。。。
「人を信じること」とは何か。。
こんなことを口に出すこのは青臭い、、と思いながら躊躇していましたが、
考え始めると、モヤモヤとした気持ちが止まらなくなります。
目の前のことに追われ、無難に物事を処理することを優先してきた日々の生活の中で、
このようなことを考える機会が廻ってくるとは思いませんでした。学生時代以来の新鮮さを感じます。
きっと、誰かが素敵な答えを持っていそうだけれど、もう少し悩んでから助けてもらおうと思います。
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「人を信じること」とは何か、と考え始めると悩ましくなりますが、
「日頃の生活で、あなたはどのような時に人を信じていますか?」
という質問に対する私の答えは、簡単です。
『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じています。』
- 信じた結果、ひどい仕打ちを受けても、それはそれでしょうがないと思っています。(信じたことに対する見返りを、相手に期待するつもりはありません。頼んだことはやってもらいたいと思っているけれど「信じている」かどうかは関係ありません。)
- もちろん、相手と距離を置きたいと感じ、避けることはあります。(私の中で「信じること」と「受け入れること」は違うのだと思います)
- その相手と会ったときに、警戒しながら接するかもしれないけれど、「相手を信じる」という気持ちに変わりはありません。(先入観を持たず「受け入れられる何かが見つけられれば良いな」と思いながら接します。)
- 「私に対して、嫌なことはしないでほしい」という気持ちと、「相手を信じること」は、全く別物だと考えています。(「あなたの言っていることは信じられない!」と思うことはありますが、相手のことは変わらず信じています。)
これは、「人を信じる」ということを意識し始めた小・中学生の頃から、変わらないように思います。
そういえば(余談ですが)、
学生時代に、刑法理論で対立する「古典学派」と「近代学派」の考え方に触れたとき、「古典学派」の中に一貫する「人の主体性を信じる」という考え方に対して、とても印象深いものを感じたことを思い出しました(自己学習なので見当違いかもしれません・・・)。(※)
備忘までに、「古典学派」「近代学派」の考え方を簡単にまとめておきます。
(この分野は、全くの素人なので十分気を付けてください。私の思い込みや誤解も含まれていると思います。)
古典学派の考え方(前期:18世紀~、後期:19世紀後半~)
・人は本来、自分の意思により自己の行動を制御することができる
・道義に反する行為を選択したことに対して刑罰が科される
- 人は自分の意思で犯罪をするかしないかを決められる(意思自由論)
- 犯罪は、犯人自らの自由意志により選択した結果であり、必然的なものではない。
- 実在した行為とその結果に対して(実在説)、道義的非難として刑罰(応報刑)が与えられる(道義責任論)。【応報刑主義】
近代学派の考え方(19世紀後半~)〔ロンブローゾ、フェリー、リスト〕
・人は素質や環境により犯罪を犯すかどうかが決定されている
・行為者の反社会的性格、社会的危険性に対して刑罰が科せられる
- 人の行動は、遺伝的素質と社会的環境によって支配されている(決定論)
- 犯罪は必然的に起こったものであり、犯人の社会的危険性が露呈したにすぎない(生来性犯罪人説)
- 犯罪を犯したことで、犯人が「内面の危険性」を持っていることが明白になったことから(徴表説)、「犯人という社会的に危険な存在」から社会を防衛するために(目的刑)、犯人を社会から隔離し(社会防衛論)、犯人を懲らしめ、再教育を施す必要がある(行為者処罰、保安処分)。【特別予防主義】
**今日の通説的な見解は、古典学派の「応報刑主義」を基本として、応報刑の範囲内で一定の目的刑を加味した「相対的応報刑論」の立場をとっています。**
(※)医療・福祉的な観点から考えると、”教育刑”を提唱する「近代学派」の考え方も悪くないと感じたものの、国家による強制的な刑罰の一環として、保安処分(治療・再教育等)が含まれ、権力による人間性の否定(行為者責任)が正当化されてしまう考え方に恐ろしさを抱きました。厳格であるべき刑法の中に、曖昧性を含む「近代学派」の考え方を取り込むことに違和感を感じたのかもしれません。「古典学派」は犯罪者に対しても自由意志を認めています(行為責任のみ。刑罰としての教育は存在しない)。消極的ではあるけれど、自由意志の中にある「本人を信じる気持ち」は有難いものだと感じました。(息苦しい世の中で、自由意志を持っている人がどれほどいるのか心配になりますが。。)
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「信じて任せなきゃ、何も始まらないでしょ。」
「前回やらかしても、今回ちゃんとやってくれればいいんだから。」
あの上司が、何を以て「信じること」にしたのかはよく分かりませんが、
彼女の有難い言葉を励みに、「ぼちぼちと」仕事に励んでいこうと思います。
もちろん、「定時帰宅宣言」は続けながら。。。
そして、、
『どんな厄介な人であっても、悪い人であっても、嫌な人でも、相手を信じる。』
相手を信じるために「なにか」なんて必要ない。信じることに見返りは求めない。
昔からずっと自分の心に留めていたはずなのに、心の余裕がなくなると、他のことの陰に隠れてしまうこの気持ち。
早速、神棚の下にでも貼っておこうと思います。
今日もありがとうございました。
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