妻が子供を連れて家を出て、しばらくの間は、
いくら懸命に抑えようとしていても、
これまでの生活の中で積み重ねられた
妻や自分に対する「腹立たしさ」や「やるせなさ」が、
大きな波のように、繰り返し込み上げてきました。
まずは、「相手のせいにせず、自分のことをしっかり見つめよう」
と心に決めていたにもかかわらず、
このような感情を持ち続けている自分、
上手く抑えることすらできない自分に対して、言いようのない無力感を感じていました。
その時の自分は、
「相手のせいにせず、自分のやったことを、しっかり見つめる」ためには、
「自分の感情を直視する」「辛かった自分の気持ちを認める」ような、
自分に対する言い訳につながる行動は、絶対にしてはいけないと考えていました。
ただ、色々と考えるうちに、
自分のしたことに、正面から向き合い、
自分の中の実感を伴って、
「自分のしたこと」を改めるための第一歩を踏み出すためには、
これまで自分が感じていた、辛さや苦しさ、本当に嫌だったこと、など、
自分の「正直な感情」や「正直な気持ち」について、事実として認めておいたほうが良いように感じました。
・・・認めてもらえると「相手に対してひとこと言いたくなる気持ち」がでてきそうになるけれど、その一線を越えるのは「ダメ!ゼッタイ。」です。自分の気持ちを、先日吐き出してからは、言いたくな気持ちは現れていません。
もちろん、
「○○の感情があったから」(原因)
⇒「○○をしてもしょうがなかった」「○○をしたことは止むを得なかった」(結果)
のように、まとめて捉えてしまうと大きな問題につながります。
- まずは、「原因」と「結果」をしっかりと切り分けて、別物として捉える。
- そして、「自分の正直な感情」については、その感情に至った原因について、正面から振り返る(認知 ⇒ 感情の流れの中に問題はないか見つめなおす)。
しっかりと問題に向き合うためにも、「自分の正直な感情」から目を背けることは、
あまり良くないように感じました。
そして、
「自分の正直な感情」(×願望、×希望、○その時に感じたそのままの気持ち)を、
見つめることができれば、安心して次の一歩に進めるような気がしました。
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ここからが前回の続きです。
前回書いたことと合わせて、整理してみあました。
「ヒトとの関係性」に対する意識を変えることになった「大きなきっかけ」
~周囲に気付かせてもらえた大切なこと~
① カウンセラーさんに気付かせてもらったこと(※):
✔ 「怒りのエネルギー」を利用することの問題点(成功体験を伴う場合)
- 「怒りのエネルギー」を活用した行動は、うまく付き合えば非常に大きな結果が得られるかもしれない。
- しかし、「怒り」⇒「良い結果」のサイクルが繰り返されると、自分では気付かないうちに「自分の周りのことをは自分でコントロールする(できる)」という意識(勘違い)が芽生える可能性がある。
- 「自分の周りの人をコントロールすることはできない」ことを忘れてはいけない。(前回書いたことと同じです)
✔ 「心配」「危険に対する恐れ」に対して、過度に反応してしまうことの問題点
- 色々な事を心配して、先手を打って対応しようとすると、新たな心配の種に気付くたびに、新たな対応を考える必要が出てくる。
- 「心配できること」「問題の芽に気付くこと」はある程度は必要だが、「心配」の気持ちは、どこまでもエスカレートする危険性をはらんでいる。
- 自分の中だけで完結すればよいが、外部に向かうと、「心配」に対する対応を、周囲にも当然のように求めてしまう。
- 結果として、「○○すると危ないことを、何とか分かってもらおう」⇒「リスクを回避のために、必ず○○するようにしてほしい」という「周りの人をコントロールする」サイクルが生まれる。
- そして、同じように感じない人(同じように感じる人のほうが珍しい)にとっては、「些細な事にこだわって、自分に言うことを聞かせようとしている」「強要されている」と感じて、反発が生まれる可能性がある。
- 「自分の生育環境・人生観」に基づく常識や、仕事のやり方を「自分の目の前の他人」に持ってきても、ほとんどの場合上手くいかないと思ったほうが良い。
- 「人と自分の捉え方は当然違う」「人の考え方を変えることはできない」。
✔ 「自分にとって大切なこと」を壊されることに、強く反発することの問題
- ⇒ まだ上手くまとめられていないので、後日追記しようと思います。
(※)カウンセラーさんからの一言に、私の理解・解釈を加えています。カウンセラーさんの意図とは異なる解釈となっている可能性にご注意ください。
② 警察官に気付かせてもらったこと:
私は、妻が子供を連れて家を出たことは、本人が考えた末の行動なので、追いかけたり、探したりするようなことはしませんでした。
ただ、家を出て数週間が経って、
妻の職場や、保育園から度重なる連絡を受けるようになったこともあり、警察にも相談に行きました。
そして、警察官から受けた言葉に、これまで感じたことがなかった、新鮮な衝撃を受けました。
(彼女が置かれている状況は何となく想像していたので、警察もこのように言うしかなかったのだとは思いますが・・・)
『成人した一人の大人の行動について、あなたが気にする必要なんてない。原因に思い当たることがあるなら、たとえ家族であっても、本人の意思なのだから尊重したほうがい。周りが気にしなくても、本人のことは本人が決めるのだから。』
『たとえ家族が仕事を失うことがあっても、本人が決めた選択なのだから、周りがとやかく言ったり、心配することではないと思うけどね。』
『事故にあって困っていても、あなたに連絡するかなんてわからない。あなたが心配することではない。すべて本人が決めること。』
保護や制度上の観点からいえば、至極普通の対応だとおもいます。
そして、含蓄ある言葉として発せられたわけでもないように思います。
ただ「相手が家族であっても、変えることなんてできない/求めてはいけない」ことを
最近実感できるようになった「情けない自分」にとって、
とても新鮮で、目か鱗が落ちるような言葉でした。
( 実は「原因に思い当たることがあるなら」お前が関わることなんてできない、、という意図だったのかもしれませんね。。。)
「個人の行動は本人が決めること」
「たとえ本人にとって不利益が伴うことでも、周りが気にする必要はない。」
「本人の意思は尊重する必要がある」
自己責任論を強調しすぎて、
すべて相手に帰責させてしまう極端な考えに至ることは問題だと思いますが、
「本人の選択を尊重する」「個人を尊重する」
「人を変えることなんてできない」
ことを理解しようとしている中で、妙に納得させられた言葉でした。
確か、憲法の中でもこのような考え方がありましたよね。。。
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今回のことを受けて、
「本人の選択を尊重する」
「本人がそのつもりにならない限り、人は変わることはできない」
ことは、自分の中では納得できた気がします。
自分の感じ方や行動を「変える」ために、
これからやらなければならないと思うことをまとめてみました。
<自分を変えるための8つのステップ>
【第一段階】
「まずは落ち着くこと(イライラ・怒りを忘れること)」
【第二段階】
「落ち着いて考えられる環境を作ること(生活習慣・住居環境)」
【第三段階】
「現在の自分の考えに至った背景を知ること、過去を振り返ること」
【第四段階】
「自分の考えに基づくと、どのような行動・感情に至るか考えること(対家族以外)」
【第五段階】
「自分の考えに基づくと、どのような行動・感情に至るか考えること(対家族)」
【第六段階】
「家族以外に対する気持ちと、家族に対する気持ちが異なる理由を探ること。」
【第七段階】
「DVとは何か、ということについて、一般論の刷り直しではなく、もう一度よく自分で理解すること。」
【第八段階】
「自分の感情(原因)」と「DV(結果)」を分離できる方法を見つけること」
【第一~八段階】
「ストレステスト。それぞれの段階に応じたストレスを与えて、自分の感情がどのように動くか、自分が思っているようにコントロールできるか確認すること。」
【継続課題】
「「被害者」の置かれた状況、心情について、実際の事例に基づいて理解し、共鳴すること。継続して共感できる機会を設けること。」
少しずつ変更を加えると思いますが、今の自分が思い付くのは、この程度です。
今いるのは、【第三段階】~【第五段階】あたりかなと感じています。
説明するだけでよいのなら、既に【第七段階】まで到達しているように思います(※)が、
当初の「自分の心に正直に」「わかった気にならない」ことを忘れず、
違和感を感じたら「少し立ち止まって見直してみる」ことを心がけて、
着実に前に進んでいきたいと思います。
=(7/24追記)==========
(※)今の段階で、私が言うことは躊躇されるですが、「人間関係の非対称性」がポイントであるように感じています。
「経済力の非対称性」「肉体的な力関係の非対称性」、だけでなく、「精神的な強さの非対称性」「弁が経つか否かの非対称性」「コンプレックスの感じ方に対する非対称性」・・・・私たちは人と違うことがたくさんあります。同じことなんて、ほとんどないと言った方が正確かもしれません。
「人はみんな違う」と感じながらも、集団生活に組み入れられると、
「みんな同じ」「男女平等」「違いを強調することはいけない」「嫌な気持ちになるから、友達の違うところは言わない」「周りと同じように行動しなければだめ」「なぜあなただけできないのか」と言われ続け、
「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ )というフレーズに、当然のことにも関わらず、なぜかホッとしてしまいます。
上手い表現は思い付きませんが、
「皆は同じ」という誤った前提に立って「周りと同じことを求められ、自分も周りに求めている」。。
「人間関係の非対称性」に気付かない(気付かないことにしておく)ことで、
「弱者と強者が同じ土俵で戦うことを求められる」「人と同じことを求められる」「貧困で苦しんでいる相手に、積極的に手を差し伸べにくい(貧困という非対称性を直視することを避けようとする)」「男・女、父親・母親という社会的な固定観念を強要する」ことにつながっているように思います。
家庭内の問題についても、まずは「関係の非対称性をお互いに認識すること」が、問題解決のための一つの観点(認知の転換)ではないかと、「今のところは」感じています。
ただ、この考え方により自己を正当化していないかについては、もう少し良く考える必要があります。
タイミングがきたら、この考え方を、もう一度見直してみようと思っています。
=(追記終わり)==========
暴走しないように、人の助けも借りながら、
自分を客観視し、問題の原因を着実に探る。そして人の気持ちにも共感する。
自分の中の問題は必ず解決しようと思います。
そして、相手の問題に気付いてしまっても、相手への指摘はやめておく。
他人を「カエルコトハデキナイ」。
でも、自分の感じ方や行動であれば「カエラレル」。
昔好きだった言葉を、20年ぶりに思い出しました。
Festina lente ...
最近は、大切なことも忘れ、日々の生活に急かされすぎていたのかもしれません。
皆さんも、どうかお気をつけください。
今日もありがとうございました。
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