見上げると、夏のような雲。そして、遠くから聞こえる子供たちの歓声。
ベランダのハイビスカスには、真っ赤な二輪の花が咲いています。
風に流された雲の隙間から、日が差し込みました。
日に照らされる鮮やかな赤色を感じながらも、
ねっとりとした感触のようなものが、耳の奥に居座っています。
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前日の電話口からの声が、ずっと耳から離れません。
「お前はやっぱり、うちの疫病神だな。どうせそんなことだと昔から分かっとった。」
「お前みたいな奴は、もう何をやっても無駄だ。二度と顔なんてみせるな。」
「精神病院にでも放り込まれて、二度と出て来るな。」
「お前みたいな奴は居るだけでロクなことにならん。世の中から消えろ。この気狂いが。」「どうにでもなってしまえ。」
昔のように言い返す気にもならず、
電話の向こうの声を聞きながら、私はぼんやりと考えていました。
このような言葉は、一体どんな気持ちから出てくるのだろう。
- 何のために、怒鳴りながらこんなことを伝えてくるのだろう。。
- 彼がこのような人間になった原因は何だろう。。
- もしかしたら上手く言えないだけで、実はもっと他のことを伝えようとしているのかもしれない。。
少し考えた始めたところで、相手の事情を考えてみようとする「いつもの癖」に気付き、ふと思い留まりました。
「考えるのは、結局自分を守るため」
「置かれている状況を、自分に納得させるため」
相手に対する我慢とも、受容ともちがう、
離れたところから自分を見ているような感覚を感じながら、
電話から聞こえてくる声に、耳を傾けていました。
動揺することもなく、ただ、聞いていました。
小学生の頃から繰り返されていた変わらない情景。終わりの見えない罵声の数々。。
新聞配達の音を聞きながら電話を終えた途端、体の力が抜けました。
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これまでも相手の行動に「違和感」を抱いたとき、
相手がそのような行動をとった理由を、いつも考えていました。
自分が感じた違和感の原因を知りたい。。。
相手のことをもっと良く知りたい。。。
そんな気持が、私を動かしていました。
一方で、相手から「理不尽な対応」をされ、「不快感」を覚えた場合にも、
自分の気持ちを納得させるために、できる限り前向きな理由を見つけ、
結果として「自分の正直な気持ち」から目を背けることを繰り返してきました。
「相手にも、このようなことをした理由があるはずだ」
「たとえ本人が気付いてなくても、このようなことをしてしまった原因があったに違いない。」
相手の事情を考え、相手の言動の理由を見つけることさえ出来れば、
相手に抱いた感情(不快感、違和感)を抑えることはそれほど難しいものではありませんでした。
そして、多少のことであれば上手く乗り越えられる“つもり”でした。
しかし、自分の気持ちを「心の中の箱」に閉じ込め、
「上手く乗り越えることができた」と思っていても、
「心の中の箱」に閉じ込められた気持ちは、これまでも度々私の前に現れました。
- 「明け方の夢の中」
- 「同じような状況に直面した時」
- 「仕事に追われて眠気に襲われた時」
- 「眠気を感じながら運転している車の中」・・・
忘れていたはずの光景が、まるで現実のことのように現れました。
半年前のこと、3年前のこと、10年以上前のこと。。。いつの出来事であるかは関係ありませんでした。
相手の事情を考え直してみたり、新しいことをしたり、何かに没頭したり、体を動かしたり、時間が解決してくれると信じてみたところで、
私にとっては一時的な気休めでしかありませんでした。
そして、
「自分の正直な気持ちから目を背け続けると、いつか我慢の限界が来るかもしれない」、
「いつまでも我慢し続けることができるわけではない」と、心の中に小さな焦りを感じていました。
- 「自分の正直な気持ちから目を背けずに、目の前の出来事を上手に受け入れられる方法」を見つけたい。。
- 相手の事情や置かれた状況を考えることで「やむを得ない」と自分に言い聞かせ、自分の気持ちに蓋をしてしまうようなことは、何とか避けるようにしたい。。
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「自分の加害性を意識してみる」ことについて、また考えていました。
事あるごとに思いにふけっているのですが、
「分かったようで、わからない」ことに、いつも心の中に引っ掛かりを感じていました。
もしかしたら「自分は問題のある人間である」という立場からしか、見ることが出来なくなっているのかもしれない。。
もっと簡単な見方もあるのかもしれない。。
天井を眺めていると、ふと思いました。。
『自分が持っている「加害性」という牙を抜く(武器を捨てる)』ことができれば、
『弱くて、正直で、裸の自分』が外に現れて、
外界に対する余計な守りを捨てることができるんだよ。。。
目の前の現実を、しっかりと自分のこととして、感じることができるんだよ・・・
ということかもしれない。。。
つまり、
「自然体になって、周囲への不信感や焦りを捨てると、『ありのまま』を感じられるようになって、自分の良心に従った感じ方や判断がしやすくなる」と。(※)
(※)目の前にいる ”よくわからない生物” に対して銃を向け続けると、危険な生き物のように感じてしまう。。逆に、”よくわからない生物” は危険な生き物だと思い込むと、銃を向けたくもなります。しかし、勇気を持って銃を捨て、目の前の”よくわからない生物” と静かに向かい合ってみると、自分の心が捉えた「ありのまま」を感じやすくなるよ、ということかなと思いました。もしかしたら、”よくわからない生物” は、生き物ですらなくて、危険ですらなくて、風に吹かれた紙切れだったという事に気付くことになるかもしれないのです。。
そして、外に対する「守り」は3つあるように感じました。
① 攻撃(加害性)による守り
② 堅固な防御による守り
③ 侵入されても、上手く対応できる力(消極的な守り。底力。)
①先制攻撃、②専守防衛、③個々の人間の底力(?)
とも言い換えることができるのかもしれません。(社会情勢も先制攻撃が流行りです。。)
(上の絵を見ていると、なんだか細胞のようにも見えてきました。人の感情も、結局は細胞のようなもの??自然界は共通点が多い??同じようなモデルで捉えることもできる??自然界の普遍性??少し興味深いです。)
① 攻撃(加害性)により自分を守ることを止め(そのために、まずは加害性を認める)
② 外の世界との間にある堅固な壁を取り払い、
③ 自分の中に入ってきた「外からの攻撃」は、「ありのままを受け止めて」「感じて」「外に逃す」。
このような行動が、
- 自分の正直な気持ちから目を背けずに、目の前の出来事を上手に受け入れられる。
- 相手の事情や置かれた状況を考えることで「やむを得ない」と自分に言い聞かせ、自分の気持ちに蓋をしない。
ということに、繋がるように感じました。
そして、自分の中に入ってきた「攻撃(外の世界からの加害性)」に対しては、
- ただ、ありのままを感じることができること(攻撃であると先入観を持って捉えない)
- 「そのまま受け止め」「感じて」「外に出す」ことができる「余裕のようなもの」を持つこと。(ワルツのステップをイメージ。テンポ良く。)
- 心の中の「痛みの元」(刺激されると過剰の反応してしまう部分)には、苦しくても向き合って、自分で受け入れられるようになること(自分の課題の解決)。
が大切なのだろうと感じました。
ただ、これは、
目先のことに不安になったり、勘ぐったり、疑ったりするのではなく、
自然の中で「自分の気持ち」「置かれた状況」の「ありのまま」を感じる心を持つことができれば、上手く解決できるようにも感じます。
(感じた後に、頭で考え始めると、不安が次第に大きくなる場合もあるので要注意です。過去の自分はいつもそうでした。。きっと、テンポを意識すれば大丈夫のはず。。)
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実家からの電話は、いつもと変わりませんでしたが、
自分の問題については、何を言われてもしょうがないことは事実です。
目の前の現実、自分の中にある問題はしっかり認めて、向かい合い、
改善を目指して前向きに歩き続けようと思います。
電話の向こうの相手に、昔のように言い返したいとは思わなかったこと、
静かに聞くことができたことは、以前からの小さな進歩かな、、と心の隅で感じながら。。。
(※)正直なところ、電話の後はもうダメかと思いましたが、天井を眺めながら色々なことを思い出し、戻ってくることができました。。。近々やろうと思っていた実家とのストレステスト(父親との会話)でしたが、思いもよらず無防備な状態で機会が廻ってきたことは、ある意味で有難いことだったのかもしれません。。
今日もありがとうございました。
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やす君パパのLiveブログ。